人生のそのままを受け入れる~慈悲心

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まだ、何か、停滞したモードです。
ヨーストの飛行機は直らないし、、、
私も体調イマイチ、、、、

また、このうまくいかない状況を、スピリチュアルに考えてみようと思います。

まずは、前回の

『出来事に特定の意味はない』

を、深く掘り下げてみよう!

私たちは、近代的な文化(ゲーム)の中で、生きているけど、

(それは、選んでいるつもりはなくても、
生まれてから自動的にその文化の海のなかで生きて来た、と言えます)

その文化的な、シャバでは、

コカコーラの瓶は、、、?
『コカコーラの瓶である!」

しかないし、

それは特に、シャバでは『真実』のように見えるけれど、、

ブッシュマンにとって、コカコーラの瓶は、
「コカコーラの瓶」である、という見方は無く、


「それは、それ、そのもの」でしかない。

つまり、本当は、

特定の意味はない、、、。
=何でも意味付けできる。


だから
ブッシュマンにとって、コカコーラの瓶は、

「楽器」にもなるし、、、
何かを叩く「道具」にもなる、、、、。
アクセサリーにも、、、。

このセオリーをもって、今の状況をみてみると、

まず、シャバ的には、、、、

飛行機が4週間も動かない

=何か良くない、自分の思い通りでないことが起こっている
=何かがうまくいってない、悪いことが起きた!
=ヨーストが何か悪いカルマがあるのか?笑

と、考えがちです、、、、
「良い、悪い」の二元論で解釈しがち、、、、、。

ここで、スピリチュアルに~考察!

仮に、神様がいるとして、、、、。
神様が私たちの人生映画のシナリオを全部決めていて、
(よく、スピリチュアルでは、すべては決まっているという)

私たちがこの世でやれることは、

「起こること(映画シナリオ)をただ体験すること、
ただ、そのままを生きること」


つまり、

人生の映画シナリオは神様によってすでに決まっているから、
私たちは、その通りに生きることしかできない~

そうすると、たとえ
人生でうまくいかないことが起こっても、

『このシナリオを演じること』

が、自分たちのできる唯一のことだから、、、

「苦々しい体験(シナリオ)を、演じている自分」

を、

神様の視点から言えば、

「映画のシナリオ通り、良くやっているな~」

「なかなか頑張っているじゃないか~!!」

と、

「そのまま、を承認できるのでは?」

と思いました。

似たような洞察を得た体験がありました。。

去年、タイでのFF長期瞑想に参加した時、

私のネガティブな感情を
大解放させるようなことがたてつづけに起き、

レクチャー時に私は、ボブさんに、文句的な質問をしました。

「なんでこんなに毎日一日中瞑想しているのに、
わたしが嫌だと思うことがたてつづけに起こり、
わたしはその感情(この時は怒り)をコントロールできないのですか?!!」

と、、、。

すると、ボブさんは、、、、

「ミリがこの人生でこうなる(シナリオ)ことを
引き受けてきたんだから、、、
もし、君が引き受けなかったら、
誰かがこの役をすることになったんだよ~」

と、、、。

また、

「あなたのカルマ、というものはなく、
ただ、あなたが引き受けたカルマがある、
だから人類のカルマを皆引き受けている、、、」

みたいなことを言われました。。。

ん、、、、~~~。。。。。

やや、目からウロコ、、

わたしは、怒りを感じてしまう自分、

怒りを相手にぶつけた自分を、
許せなかったのですが、、、

こんなに瞑想しているのに、
怒りをコントロールできず、
相手にぶちまけるとは、、、

お先真っ暗、、、、(みたいに)思っていましたが、

ボブさんの言葉で、、、、。

このいや~な体験を演じている自分が(映画の中の自分が)、

「自分自身である」と、同一視していた視点から、

少し隙間ができ、、、

本当の自分は、俳優の自分ではなく、

『映画を、「観察している自分」』

または、

『映画を作っている監督が本当の自分』

なのだと、、、

解放、自由な気持ち、ワンネス的な気持ち。

「何も悪いことはない」

「そのままでよし」

を、得たのでした。


そしたら、自分のことを、

『なかなか良くやっているじゃないか~!」

『人類のカルマを引き受けてて、偉いじゃないか~!!私」

と思えるようになりました。。。

これが、「慈悲心」というもの~?

『人生の悲しさ、悲劇、うまくいかないことをも、
そのまま、赦す、、、受け入れる。。。』

例えば良くないことが起こったとき、
その出来事は、

「自分の何が悪くて起こったの~?」

と、人は、自動的に

「自分の何かが悪い!」

と、責めてしまいがちですが、、、
本当は、自分を責め過ぎなくてもいい、、、、。


特に悲劇のような、難しい状況では、、、

人生の出来事と、自分自身を同一視しすぎないほうがいい。

と、気付いたのでした。

人生の中で、
まず、自分が、ベストを尽くして、、、

それでも、起こることが起こったときは、
(ネガティブに見えることが起こったときは)

シナリオをそのままうけいれ、

自分を責めない(出来事と自分を同一視しない)


ことが大事だと、思いました。。

うちの母が、突然手術の予後が悪く、
8年前に亡くなった時も、

自分の何が悪くて、こんな悲劇が起こったんだ、、?
と最初はつい考えましたが、、、、

結局は、私も家族もベストを尽くしたけど、、、

母は他界し、、、
ただ、深い悲しさと、、、
人はいつか亡くなるという、現実をそのまま受け入れるしかないんだと

降参サレンダーした気持ちになりました。。。

人生の悲しさをそのまま受け入れたのでした、、、。

(このとき、慈悲心を体験しました)

別の悲劇例で、

投機で大失敗したこともありました~~

そのときも、

自分は良かれと思って、(いっぱい寄付しようと)
ベストを尽くしたけど、、、

大失敗に終わり、、、(大損し)
その自分を、、ただ受け入れたのでした。。。

そのときも、シャバ的には
自分は大馬鹿者、失敗者とも言えますが、、、

人生のシナリオをただ受け入れるしかないと、、、

そうすると、たくさんのお金も失ったけど、

愛する友人や家族はいるし、

暖かい家に、ぬくぬくと暮らせる自分は、

十分幸せだな~と、
不思議に、幸せな解釈ができました。。。

人生では様々なストーリーが展開しますが。。。

特に、悲劇ストーリーのとき、

ストーリー抜きの視点、

生きているだけで素晴らしい、
シンプルな、素の自分

に立ち返るのが、働くと思いました。。。

母が亡くなって、
ワーワー泣いた挙句(悲劇モード)

疲れたら、、、

「何か、お腹すいたな。。。」
と、急に「素の自分モード」になり、


悲劇ストーリーから目が覚めた感じが

妙におかしかったのを、覚えています。。。

ワンネス意識からみた自分。。。

「そのままの存在」としての自分。。。

ストーリーなしの自分。。。

今だって、

天気がいいキャラバンにいて
心地よい風が吹いていて、
お気に入りのカルダモンチャイを飲みながら、
好きなことを書いている、、、

人の本当の幸せは、

幸せを感じる力、感性によるのかな?

幸せを感じる感性=ワンネス意識、無条件のよろこび

がたくさんあれば、
大したものがなくても、

幸せな気持ちになれるんじゃないかと思います。

だから、シャバ的な、幸せの条件である、
お金持ちとか、モテるとか、

そういう「シャバのゲーム」で勝つこと!
良い条件を勝ち得ることにトライする


のも良いけど、

あまりシャバのゲームに踊らされすぎず、

淡々と、

自分の持ち味、本質、テイスト、

自分の軸から生きていくこと。

つまり

自分がやってて楽しいことを

シンプルにやっていくような
自然な生き方が、

「ダルマを生きる」

「宇宙と調和して生きる」

ということ、

幸せに生きる、

ということだと思います。。。

自然に、楽しく生きていれば、

人にも優しくでき、
波動も高いから、

結局、

波動の高い結果(としての成功や幸せ)を引き寄せることも
らくらくできる~~

だから私達も、今のこの現状(絶不調にみえる状態?!)を、

「私たちは、完璧な映画シナリオの中にいる」

と、無条件に赦し、
安心して過ごそうと思います~~

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